共同創造 Co-production つぶやき 場の安全性

共同創造が行われていくためには、その場にいても安全だ、その場で自分の意見や考えを言っても安全だ、という感覚を参加者が持てる(あるいは、安全とまでは感じないまでも、この場にいたら危険とは思わない)ことは重要だと感じています。

自分の安全以外にも、他者の安全が確保されるのか(他者を傷つけてしまうことはないか)という恐れも共同創造の実践に影響をしそうに感じています。本当に思っていることを言ってしまったら誰かを傷つけてしまうのではないかという恐れや、自分が言ったことで誰かを傷つけてしまったのではないかと思ったら、意見や考えを言うことを控えてしまうことも起こり得ます。

少し話しは変わるのですが、以前、哲学対話について記事(資料15)に書いたのですが、また別の哲学対話についての記事で、多様な意見の尊重をすることを大事にしているので、偏りに基づいた考えも発されることもあり、しかしその意見や考えが誰かに対する暴力ともなり得る、しかし、自由な対話、その自由さや鋭さが、社会を問い直すことにつながるので、『「鋭さ」と「場の安全性」の両立が課題』であるとありました(東洋経済education×ICT education特集 「哲学対話の授業」確かな手応えと悩ましい課題 2021/07/20)。

哲学対話と共同創造とでは文脈は異なるものの、多様な意見を尊重するという理念は共通だと思います。場の安全性を保ちながら意見が出し合われる場としていくことについて、今後も哲学対話や、その他のさまざまな取り組みも参考にしつつ考えていけるとよいのだろうなと感じました。

共同創造において、その場に安全を感じられるようになったり、いろんな試行錯誤を重ね、後悔や反省をしつつも、それでも続けてみようと思うためには、人間としてお互いを知り合う機会や時間があることが後押しになるのかな、と感じています。(宮本のひとりごとでした。)

共同創造 Co-productionつぶやき

医療保健領域での共同創造を考えるにあたって、病や障害、あるいは困難を生きる人たちの知や、その共有のされ方についてと、その人たちと専門職者・支援者との関係のあり方に意識を向けることは不可欠だと思っています。たとえばセルフヘルプグループや当事者会、これまでの医療保健領域での支援するされるの関係、社会の中で患者や障害者がどのような対応をされてきたかについても、共同創造を考える上で重要なテーマだと感じます。

2021年2月にあった東京大学の国語の入試問題で、松嶋健「ケアと共同性――個人主義を超えて」の文章が使われていました。共同創造について扱っているわけではないのですが、自助グループやケアについて述べている文章です。

この文章では、田辺繁治の調査したタイのHIV感染者とエイズを発症した患者による自助グループを例に出して

”医学や疫学の知識とは異なる独自の知や実践を生み出していく”

ことや、そこに

”非感染者も参加するようになり、ケアをするものとされるものという一元的な関係とも家族とも異なったかたちでの、ケアをとおした親密性にもとづく「ケアのコミュニティ」が形作られていった”

といった内容と、糖尿病の外来でのフィールドワークからアネマリ-・モルが

”糖尿病をもつ人びとと医師や看護師の共同実践に見られる論理”

の特徴から取り出した「ケアの倫理」について考察し、

”ケアとは、「ケアをする人」と「ケアをされる人」の二者間での行為なのではなく、家族、関係のある人びと、同じ病気をもつ人、薬、食べ物、道具、機会、場所、環境などのすべてから成る共同的で協働的な作業なのである。”

といったことが書かれていました。

理系・文系のどちらの受験生も真剣に読んで考える入試問題の中にこういった内容が含まれていたことに、なんだかうれしくなったのでした。

なお、松嶋健. ケアと共同性――個人主義を超えて. は、松村恵一郎・中川理・石井美保編「文化人類学の思考法」世界思想社. 2019 に全文があります。